希望発見ブログLooking for HOPE

心を癒す旅 ~もっと楽しく、もっと気楽に。

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希望発見ブログでは、霊的知識(スピリチュアリズム)を元に、瞑想、心の癒し、死後の世界(天国)の実像についてお伝えしています。
(いかなる宗教とも一切関係ありません)◎皆様の受け入れられる範囲でお読み下さい。

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この心癒えるまで【4】神と仏*迷信を打破し、霊的真実を求めて

 今回の記事では、神道や仏教を中心に霊的真偽を掘り下げていきます。以下の内容は、受け入れられる範囲でお読み下さい。皆様の理性が反発する場合は、皆様のご意見を優先させて下さい。

日本人と神*日々、感謝

 私は、先祖を篤く敬う祖父の影響で、子供の頃から一緒に仏壇や神棚の前で祈る機会が多く、仏教や神道の世界に親しみを感じて育ちました。しかし、祖父の葬儀の際、昵懇にしていたお寺が随分と高慢な態度で何かと法外な金銭を要求してきたことがきっかけで、仏教に対する親近感は完全に吹き飛びました。深い悲しみの中、強い憤りが芽生え、あらゆる宗教の霊的真偽を強く求める気持ちが膨れ上がりました。
 宗教は、時代や新たな文化圏への流入と共に教義が変化していく特性があり、インドで始まり、六世紀に日本に伝来した仏教は特にそれが顕著です。また、教義のない神道も仏教に大きく影響を受けました。
 古来、という無限の存在への理解ほど、人間の頭を悩ませてきたものはありません。鎖国が終わり明治の世になった時には、Godという言葉をどう訳せばいいのか、当事者を悩ませました。
 自然の中に神々を見出し、八百万(やおよろず)とも表現される日本人の歴史的な神の概念と、キリスト教のような一神教の神の概念とは、相容れなかったためです。
 そんな時、一神教の神によく似たものに、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)と唱えさえすれば、誰でも救われるという浄土宗系の阿弥陀如来がいることに気づき、God=如来も案にあがりましたが、それではあまりにも仏教色が強すぎるきらいがあり、結局はGod=神でおさまりました。
 キリスト教のように、神を一人の人格の中に閉じ込めて神格化してしまうことは、よくありがちな霊的な過ちです。イエスは本人の意思に反して神に祀り上げられた人ですが、日本には戦国期の武将・織田信長のように、自ら神になろうとした人がいました。
 当時、信長に謁見した宣教師は、「この無神論者は、本気で神になることを考えている」と教皇庁に書き送っています。その後、信長の発想を天下と共に受け継いだ豊臣秀吉は、豊国大明神という神号を天皇より与えられ、神の座に列しました。しかし、神になりたい人はまだいました。徳川家康です。
 秀吉の死後、息子の秀頼を攻め滅ぼし、秀吉の廟所を打ちこわして神の座から引きずりおろすと、日光に自身の廟所をつくって東照大権現という神号を賜り神列に加わりました。ちなみに、秀吉が神の座に戻るのは、明治の世になってからです。
 神になるのも簡単ではありませんが、神は一個人の人格を遥かに超越したものだと、古代の日本人はよく理解していました。それが神道の起源でもあります。人々は春夏秋冬の四季の移り変わりを生み出し、夜空に満天の星を輝かせ、雨上がりに色鮮やかな虹をかける、人智を遥かに超越した存在があることを自然の中に感じ取っていました。
 大自然の完璧な摂理、そこから得られる多くの恵み。神とは、宇宙の完全な自然法則と叡智、愛であり、山や森、岩など、神の息吹を感じた場所はしっかり清め、みだりに人が立ち入らぬようにした上で、人生を支えてくれる偉大な存在へ祈りを通じて日々感謝する生き方が、古代より日本の大地に存在しました。 
 仏教の影響で社殿ができましたが、古代神道が表しているように、本来、神の力はいかなる建造物内に閉じ込められるものではなく、神と人との間には儀式、作法、お金、組織的な仲介者や教義も一切不要です。
 神道は元々、現代のように学問、縁結び、商売繁盛などと、神の役割を細分化してご利益とか開運、厄除けといった一時的に人々にありがたがられる言葉をちらつかせながら、困った時や必要な時だけ神を呼び出すような軽々しい形ではなく、その不変の愛と恵みに日々感謝する、人としての在り方を示すものです。

日本人と仏*日本仏教は、異質な宗教

 歴史小説家の司馬遼太郎さんは「日本の仏教史は相当われわれ庶民をだましてきた、それもいろんなだまし方をしてきた」とおっしゃっています。その言葉通り、釈迦仏教には本来、仏像さえ存在せず、拝む習慣も死後の世界もありませんでした。
 中国と朝鮮半島の百済(くだら)を経て、日本に仏教が伝わった時、使者は青銅に金メッキを施した釈迦像一体と経綸、仏具を宮廷に贈った上で、「この法は、周公(周王朝の君主)も孔子もご存じなかったことだが・・・」ともったいぶった後、「福徳果報を成す」と本来の仏教とは一切関係のない現世利益を説きました。
 今も昔も、人間はこういう言葉に非常に弱い生き物で、しかもそれまで埴輪(はにわ)のような土器しか見たことのなかった日本人は、金色に輝く”異国の神”の姿に圧倒されました。
 仏教の象徴ともいえる仏像の存在は、日本に伝わった仏教(大乗仏教)が、本来仏像などなかった釈迦仏教とは断絶したものであることを、如実にあらわしています。釈迦は厳しい自助努力により煩悩を断ち切り、泰然自若の境地に入ることを悟った人でした。
 それは自らの精神を常に高揚させ、内的意識を拡大していくことで過酷な試練、孤独、自己鍛錬の修行を乗り越えていき、苦難が大きいほど、そこから得られる悟りも大きいものになるという人生への理解です。
 釈迦はとても心優しい人で、その愛にあふれた言動は多くの人々を魅了しました。その点、キリスト教の祖と信じられているイエスの生き方に似ています。ただ優しいだけでなく、イエスが当時の腐敗したユダヤ教の聖職者や組織を徹底的に糾弾して社会悪に堂々と立ち向かったように、釈迦もまた、インドで人々を4つの階級に差別し、「信仰心がなければ下の階級に落ちる」と恐怖心で人心を支配していたバラモン教の教義に、くさびを打ち込む努力をした人でした。
 しかしイエス同様、釈迦の教えは後世に生きた人間によって、全く別のものに変質していきました。釈迦がこの世を旅立ったあと、「悟りなど凡人が得られるものではない。仏教の本質はお釈迦様の愛ある生き方=慈悲にある。その慈悲心にすがれば、救われるに違いない」と救済思想を持つ信仰=大乗仏教が生まれたのです。
 他の宗教にもみられるこの救済思想こそ、歴史的に人間の自助努力を怠らせ、信仰の有無によって人類を分断させ、死後の世界においても、多くの信心深い人々を大混乱に陥らせる非常に悪質な思想です。
 人間は皆、「自分の行為が生み出した結果は、自動的に必ず自分に返ってくる」という霊的法則の元に生きています。愛を分かち合えば、愛が返ってくるという極めてシンプルな法則です。
 イエスや釈迦がお手本を示したように、私たち一人一人が日常生活の中で愛を実践すること、社会悪に毅然と立ち向かうことこそ、自分を救い、世界をより良い場所にする唯一の方法なのです。
 信仰心の有無は全く関係なく、どんな動機で何をしたかが重要になります。実際に人は一生を終えた後、人生の全ての行為を清算します。霊的法則は神という存在の最大の特性で、霊的知識の中でも神秘中の神秘です。なぜなら、一見理不尽なことや不公平だらけに見える人生も、霊的視点から見れば、実は完全公正な善悪バランスがとられるようになっているからです。

日本仏教の歴史をたどってみれば・・・

  宗教はそれぞれの歴史を紐解いてみれば、必ず想像的産物が付け加えられた創作の歴史に突き当たります。仏教も釈迦の死後、しばらくして如来菩薩明王、バラモン教から取り入れたなど、様々な仏が創作されました。
 釈迦自身は死後の世界を否定し、僧侶が葬儀に参加することさえ禁じていましたが、仏の慈悲による救済思想を掲げる大乗仏教が中国に入ると、儒教との競争から葬儀に関わる宗派が出てきて、本来葬儀とは無関係のお経も使用され、葬儀が教団の大切な収入源になりました。
 大乗仏教は日本でも人気を博し、8世紀には聖武天皇が仏教国家の樹立をすすめ、諸国の長官に命じて国分寺を建てさせ、国家の中心には東大寺を建立し大仏ができました。
 江戸時代になると幕府が徹底的なキリシタン弾圧を推し進める一方、キリシタンと区別するために、全ての日本人を仏教徒にすべく、個人情報をお寺に登録して管理し始め(寺請制度)、葬儀を菩提寺で行わさせ、寺の私文書である過去帳に戒名の記入を義務づけました。
 以後、信仰や死後の世界と一切関係のない戒名制度が一気に庶民に広がり、お寺は莫大な収入と権威を持つようになり、お布施代などに関してかなり横暴な態度をとるようになりました。私の祖父の葬儀で高額な金銭を要求してきたお寺は、その名残りなのかもしれません。
 このような流れでできた仏教の死後の世界は、人が生まれ変わる世界を6つに分けたり、宗派によってすぐに生まれ変わる、即極楽浄土へいける、亡くなった日から四十九日後の最終審判で極楽浄土へいけるかどうかが決まる、とする教えもあります。これらの知識は全てが創作で、霊的に事実無根です。誰でも救ってくれるはずの阿弥陀如来は架空の存在であり、死後の世界のどこを探してもいません。
 伝統的宗教の教義や儀式への違和感は、現代ではすでに多くの人が感じています。世の中は、世代が進むごとに霊的にも全体として必ず進歩するようになっているので、祖父母や両親が特定の宗教に親しんでいたとしても、子供は受け入れないという家庭も増えていきます。宗教組織が内部から大きく変革しない限り、今後も宗教への違和感、不信感を募らせる人は確実に増えます。
 実際に近年、葬儀に宗教を挟まない直葬という形を選ぶ人が増えています。伝統に従わないと心配という方もいらっしゃるでしょうが、どんな形でも皆、天国に行けます。宗教はこの世にしか存在しないもので、天国へいけるかどうか、信仰心によって左右されるわけではありません。
 最も大切なことは、他界された方への心のこもった祈りだということを、当ブログでは度々お伝えしてきました。形式にとらわれず、他界された方が生前最も元気にされていた写真や大切にされていた物で、自分なりの祈りの場を作れば十分です。祈りによって増幅された愛の念が、他界された方の霊的覚醒を促し、心を隅々まで癒し、新たな世界を歩むための大きな勇気と幸福に確実につながります。

救済の道は宗教にはなく、あなたの行為にある

 どの宗教にもを基調とした立派な教えがありますが、死後の世界のこととなると、宗教世界が伝える特殊な世界観を放置できない霊界側の大変深刻な事情があります。
 前回の記事で、死後の目覚めについて触れましたが、それを著しく阻害・遅延させるものが、想像の産物に過ぎない宗教的な死後の世界観を頑なに信じてしまうことです。
 日本仏教も例外ではありません。たとえば人は死後、七日毎に極楽浄土へ行けるか裁判を受け、四十九日後に最後の裁きがあると頑なに信じていると、死後もその時を延々と待ち続けてしまうのです。ことをより厄介にさせるのは、死後の世界の最大の特徴である時間の感覚です。
 死後の世界では時間が存在せず、時間の感覚がなくなります。そのため、地上の時間で何十年も何百年もその裁きを待ち続けたり、せっかく霊体で目を覚ましても、裁きを待つといってもう一度眠ってしまったり、信じていた宗教世界がどこにも存在しないことに不安におののきながら精神に大混乱をきたしたまま徘徊しだすことがあります。信仰心の深い人ほど、先に他界した家族や友人が声をかけても聞こうともせず、寄せつけません。完全に魂が教義に束縛された状態で、本来、完全な自由と愛、光輝あふれる世界を満喫できるはずなのに、信仰心によって新たな人生の門出が泥沼化してしまうのです。
 そういう人たちが世界中から次々と送られてきて、一人一人対応せねばならない霊の世界の混乱ぶりは、いくつもの霊界通信や交霊会で伝えられています。こうした状況を改善するには、霊的に事実無根の宗教的教義を信じ込む人を、一人でも減らさないといけません。
 他の宗教でも、人は死後裁きを受けるという思想がありますが、人間は誰一人、第三者から裁きを受けることはありません。どれほど深い罪を犯した人にも裁きはありません。すでに霊的法則により、自分の行為が生み出した結果が決まっているので、裁きは不要なのです。
 混乱の原因を作った宗教者、組織には霊界側から非常に厳しい目が向けられていて、霊的法則により大きな責任が待っています。宗教者で誤った教えを説いた人は、死後、その教えを受け入れた全員に直接会って謝罪した上、正しい知識を伝える義務が生じます。
 長年宗教活動をしていた人やSNSなどを活用していた人は、謝罪しないといけない人が莫大な数になります。たとえ会って謝罪しても、相手は自分のせいで誤った知識を信じ込んでしまっているので、納得してもらうまでが大変です。
 ただし、自分が教えた内容を心底信じていて、相手のことを心から思って伝えていた場合は、動機に不純な点がないため、直接謝る必要はありません。真摯に活動していた人には、助けてくれる人もたくさんいます。
 しかし自分が伝えていた内容に対して実は半信半疑だったり、架空の話だと知っていたのなら、霊的法則により全責任を負うことになります。「私は伝統を守っただけだ」とどれだけ強がって弁明しても、霊的法則に情状酌量の余地はありません。霊体は、その人の精神性が全て可視化されるので、どんな人生を送った人か誰の目にも一目瞭然です。嘘偽りが通用しません。
 謝罪はスタートに過ぎず、その後地上にいる自分と同じような不純な動機で宗教活動をしている人のところに指導霊によって連れてこられ、かつての自分の行為を反省する機会を持ちます。
 それは、形式や伝統、教義を守り続けるだけの宗教には何の意味もないことを思い知る瞬間でもあります。霊体は感情体でもあり、深い悔恨が生前のいかなる肉体的苦痛よりも、自分を苦しめることになります。意図的に誤った霊的知識を伝えたことの責任は、それほど重いのです。霊的法則には、地上人生でしか償えないこともあるので、もう一度生まれ変わって、克服すべき課題に取り組む場合もあります。
 霊界通信などで、宗教者の壮絶な死後の後悔をたくさん見聞きしてきた私は、霊的知識をお伝えするにあたり、霊的法則の存在を忘れたことはありません。
 宗教者に限らず、人間は誰しも過ちを犯すことも事実です。しかしこの地上人生のうちに、自分の過ちに気づいた人はまだ幸いです。真摯な反省は霊的成長の大きな一歩です。宗教組織、建造物、儀式、教義は霊的法則に無力ですが、あなたという存在は決して無力ではありません。
 あなたは永遠に生き続ける霊的存在であり、神の分霊なのです。春夏秋冬の四季の移り変わりを生み出し、夜空に満天の星を輝かせ、雨上がりに色鮮やかな虹をかける、それと全く同じ力があなたには宿っています。
 どうすればいいか、イエスや釈迦が日常生活で愛をひたすら実践する生き方、社会悪に勇気を持って立ち向かう生き方を示してくれました。それが唯一の救いの道であり、誰でもできることです。
 霊的法則は、どんなにささやかな愛の行為も見逃したり無視することはありません。全てあなたの霊体に記録されます。困っている人に手を差し伸べる、優しい言葉をかける、体調不良の人を気遣う、無力な動物を保護する、どんな形でも愛を誰かに渡せば、自動的に未来に歩む道は愛によって明るく彩られます。
 自分という存在を自分以外の誰かために、本気で思いやりある行動に移せたなら、たとえ相手がたった一人でもたった一匹の動物でも、あなたという人はすでに救いの道を歩み始めています。のように愛に生きることで、あなたを通して神の愛が世の中に顕現したことを意味するからです。
今日も最後まで希望発見ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
Your spiritual friend,Lani

参考文献:シルバーバーチの霊訓(潮文社)、ベールの彼方の生活(潮文社)、インぺレーターの霊訓(潮文社)、こころが安らぐ本(大和書房)、こころが満たされる本(大和書房)、私はできる!(サンマーク出版)、すべてうまくいく(角川書店)、スピリチュアルパワーに目覚める10の秘密(PHP)、人生をもっと幸せに生きるために(河出書房新社)、パワーオブ・ザ・ソウル(JMAアソシエイツ)、死別の悲しみを癒すアドバイスブック(筑摩書房)、ワイス博士のストレス・ヒーリング(PHP)、司馬遼太郎が考えたこと(新潮文庫)、お坊さんが困る仏教の話(新潮社)、この国のかたち(文春文庫)

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