絶対に許してはならないことは、不安の念を心に居座らせることです。取り越し苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、むしばみます。判断力を鈍らせます。理性を曇らせます。事態を明確に見極めることを妨げます。
(シルバーバーチの霊訓より)
もう心配なんてしない*取り越し苦労が人生を行きづまらせる
人は変わる、という人がいます。
いや、人は変わらない、という人もいます。
変わる人もいれば、変わらない人もいる。こんな風に答えるのが日本人らしいかもしれません。
私は十代、二十代の頃に比べて、“変わった”と思います。
何が一番変わったのかというと、極度の心配性から脱却することができました。
母の性格をそのまま受け継いだ私は、本当に怖がりで、いつも最悪の事態ばかり想定していました。どこかが痛くなると死ぬんじゃないか、飛行機に乗ると落ちるんじゃないか、だって自分は特別に運の悪い人だから、と万事こんな調子で体調も崩しやすく偏頭痛持ちで、お腹を下してばかりいました。
それは“性格だから”という一言ではすませたくないほど、とてもつらい生き方です。でも、三十代に入って瞑想を始めてから今までの人生感が変わりました。以来心の安定を得ました。
同時に霊的真理を学ぶにつれ、人の思考にはとてつもない力があることを知り、心配することが自分にとって全く役にたたない、ということを受け入れました。
心配ばかりしていた自分の生き方に、完全に終止符を打つことに決めたのです。
普段考えていることが、自分の未来に種をまくことです。良くないことばかり考え、心の大地にネガティブな種をまくのか、明るい未来を描き最高の種をまくのか、選ぶのは自分自身です。
心配しないよう努めれば、人生の様々な決断の場面で冷静でいられます。心と体の健康にもいいこと尽くしです。この道を歩んで本当に良かったと思っています。
訪れた試練*息子の大けがに心配せずにいられるか?
そんな私に、先日“試練”がありました。というより、試練が訪れたのは息子のほうです。世界で一番大切な我が息子が、安全なはずの小学校で大けがをしてしまったのです。
彼は普段好き嫌いなく何でも食べ、日常的にスポーツをしているので、まず風邪もひかず、何年間も病院とは無縁の屈強な子なのですが、さすがに今回は大きな総合病院の緊急外来にお世話になりました。
すぐに看てもらえるわけではなく、血を流しながら待合室で息子は恐怖で震えていました。看護師さんが近づき「心配でしょうがもう少しだけお待ちください」と言って、息子に応急処置をしてくれました。
診察室の隣りに医療関係者と緊急患者の家族が話す部屋があり、そこから出てきたご家族の方が、全員涙されていました。
ここは悲しい出来事が容赦なく起こる場所なのだ、ということを嫌でも痛感させられます。
以前の私なら、悪いことばかり考え息子と一緒に震えあがってパニックになっていたでしょう。今回の傷は見た目にも非常に深いものでした。
でも、いくら私が心配したところで息子の症状はよくなりません。それどころか、心配していたら息子にも伝わり余計に彼は恐怖を感じます。
心配は役に立たないんだ、絶対に大丈夫、すぐに良くなると心から信じ、息子の手を握り「心配しなくていいよ。絶対に大丈夫だから。一緒に乗り越えようね」と話しかけました。息子はうなずきギュッと手を握り返してきます。
しばらくして呼ばれ、先生がとても丁寧に処置して下さり、数日間は安静に、ということで事なきをえました。安心した息子にようやく笑顔がもどりました。現在はとても元気にしています。
心配は健康を害す*脱心配性で健康を手に入れる!
病は気からとはよく言いますが、心の健康が体の健康と直結していることは、医者でなくても誰もが知るところです。
病気の多くは私達の感情によって引き起こされています。その中でも“心配”は体のあらゆる場所に痛みや不快感を引き起こします。
心優しい人が重大な病気になる。何であんな素晴らしい人がこんなことに・・・。と身近な人に心痛めた経験がある方も少なくないと思います。
バチが当たったわけでは決してありません。それは、何かを極度に心配し続けたことが起因することだって十分考えられます。
身体のどこかに不調を感じたら、薬を飲んですぐに痛みを消したり病院に駆け込むのが普通かもしれません。でも一時的には収まっても、その不調はよく繰り返されることがあります。
そんな時は一度立ち止まってみましょう。その痛みや不快感はあなたに何を訴えているでしょう?何かを止めるよう訴えてはいませんか?
私は痛みの原因が、ひょっとしたら自分の思考回路によるかもしれないと気づき、心配性の克服の原動力になりました。
心配は自分の体を痛めつけます。「健康でいたいから、もう心配なんかしない!」そう心に強く決めました。こういうことは、中途半端にやるのではなく、断固とした強い決意で大袈裟なくらいやってみるに限ります。
心配している時間に、幸せを感じる人はいません。逆に言えば、心配をやめてみれば、幸せな時間が増えます。自分自身を心地よく感じるようになります。
完全に心配しない、ことは難しいかもしれないけれど、心配は百害あって一利なしなんだ、と意識することで、随分と生きやすくなります。心が強くなると同時に体も強くなります。病気を未然に防ぐことができるのです。
私自身、随分体調が良くなりました。自分自身の経験からも、できるだけ心配しないよう意識する生き方は、心身の健康面で得る効果が大きいだけに、やってみる価値はあると信じています。www.spiritualfriends.work
祈りを妨げていたのは実は自分だった!
真摯な祈りは決して無駄にはなりません。思念は生きものだからです。
(シルバーバーチの霊訓より)
人は考えていることを引き寄せる。それを信じるか信じないかは別として、霊的な観点から、心配がいかによくないかを最後にお伝えします。
あなたの信じるものが何であれ、人は窮地に立たされた時、誰でも祈ることがあると思います。祈りという行為は決して、軽くみられるべきものではありません。
今年も終わりに近づき、新年に初詣に出掛けられる方も多いことと思います。祈りのメカニズムとして、もちろん賽銭箱にいれた金額は無関係です。最も良い方法はその祈りの内容に対し、常に最高の結果を叶った時の感情と共にイメージすることにあります。
その時一番やってはいけないのは、ダメかもしれない、と心配すること。人の思考には絶大な力があり、心配の念は強力なマイナスエネルギーとなります。
今まで祈ったことが叶ったことなんて一度もない、という方は、ひょっとしたらその原因は祈りの後心のどこかで諦めたり、心配し続けていたのかもしれません。心配するということは、祈った神聖な対象に対して、信じていないことを意味します。
このように精神的にも、肉体的にも、霊的にも心配は人生にいい結果をもたらしません。
私達は大量の情報が錯綜する不安な時代に生きています。何も意識しなければ、健康を害して当然の世の中かもしれません。
だからこそ、少しずつでも心配性から脱却することをお勧めします。取り越し苦労をやめて、楽観的に生きましょう。
今日も希望発見ブログをお読みいただき、本当にありがとうございました。
Your soulmate friend,ラニ