マムシと恐れられた男*斉藤道三
今、日本で一番行きたい場所が、標高329メートルの『金華山』(きんかざん)にある岐阜城です。織田信長の一生を記した『信長公記』(しんちょうこうき)には、『岐阜』という言葉は、織田信長が命名したと書かれているそうです。織田信長が岐阜城と命名する前は稲葉城と呼ばれていました。
稲葉城は天下統一の拠点として、戦国時代初期、最も重要視されていた場所でした。
稲葉城がある美濃に、京都で一介の油商人だった人が乗り込んで、当時この城を拠点にしていた斉藤氏を乗っ取るという信じがたいことが起こりました。
のちに『マムシ』として恐れられたその人は、「美濃を制すものは天下を制す」という言葉をのこした『斎藤道三(さいとうどうさん)』(1494-1556)です。小説『国盗り物語』の前半には恐れ知らずの斎藤道三が権謀術数の限りを尽くし、型破りな手法で次々と政敵を倒していく様子が描かれています。後半は斎藤道三が才能を見出した娘婿の織田信長と明智光秀双方の視点から、本能寺の変に至るまでの道のりが克明に描かれています。
自尊心の塊のような斎藤道三は、難攻不落と言われた稲葉城を自ら設計し、稲葉山そのものを城塞化しました。また、楽市楽座など信長が始めたとされる市場の開放を真っ先に始め経済の活性化を図った先駆者でもありました。
司馬さんは、人からマムシと陰口を叩かれながら、我が道を突き進む斎藤道三のことをこう表現しています。
『人の悪口が、耳に入らないたちの人間なのである。すくなくとも、人が悪口を言っている、などとカンぐったり気にしたり神経を病んだりしないたちの人間なのである。だからこそ、気にしない。見えざる人の悪罵をあれこれ気に病むような男なら、行動が萎える』
歴史上の人物を描写する文章の中に、貴重な学びがあるのも司馬さんの小説の特徴です。読みながら、人が自分のことをどう思うか気にしすぎると、いかに自分らしさを失い人生が窮屈になるか、ということを思い知ります。司馬さんが国盗り物語を書いたのは40過ぎです。凄まじい人間力をひしひしと感じます。
待つことも行動*人生は決して慌てない
“下剋上”の象徴のような人物は斎藤道三の他に、小田原城を築いた北条早雲がいます。飢饉が発生しても民衆を一切顧みない室町幕府に嫌気がさした早雲は、56歳の時に民衆を第一に考える政治を志し行動を起こします。度々窮地に陥っても焦ることなく、30年以上かけて87歳で戦国時代初の大名になりました。人生50年と言われている時代にです。早雲自身は常に質素倹約を心掛け、領民の年貢を減らすなど善政を敷き続けます。領民は早雲を尊崇し、命を惜しまず早雲と共に戦ったのです。
斎藤道三の行動学には“待つ”ことの重要さが含まれていて、北条早雲と共通していることは、不遇な状況に陥ってもその間に準備だけはしっかりして、人生を絶対に慌てないことです。
今回は、司馬遼太郎さんの名著『国盗り物語』(新潮文庫*全4巻)より、心に残った言葉の数々をお伝えします。
『国盗り物語』の中の名言
「目的があってこその人生だと思っている。生きる意味とは、その目的に向かって進むことだ」
「世の中には、やると待つしかない。待つというのも、重要な行動なのである」
「自分には意外な才能がある。人間、自分の才能を発見するほどの愉悦はない」
「可能かどうか考えるよりも、一つずつやり遂げていくことだ」
「生ある限り、激しく生きた者のみが、この世を生きたものだろう」
「将になる者の心得があるとすれば、“信”の一字だけだ。約束したことは破らぬという信用だけが、人を寄せ、次第に心を寄せるものが多くなり、ついには大事が成就できるようになる」
「強力の怯者は非力の勇者に劣る。死勇をふるう者ほど、世に強い者はない」
「気運とは恐ろしい。気運がくるまでの間、気長に待ち、あらゆる下準備を整えてゆく者が智者である。その気運がくるやそれをつかんで一息に駆け上がるのが英雄である」
「俺の戦さの一生はここから始まる。戦って戦って戦いつくしてやろうと思った」
「ともかくも若い間は行動することだ。めったやたらと行動しているうちに機会というものはつかめる」
「来る年も来る年もこのように歩き続けて、ついに俺はどうなるのだろうとふとむなしさを覚えぬこともない。人の一生をいうのは時に襲ってくる虚無との戦いといってもいい」
北条早雲の生涯は『箱根の坂』がおすすめです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Your spiritual friend, ラニ
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