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希望発見ブログLooking for HOPE 

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マリー アントワネット終焉の地『コンシェルジュリー』*王妃から女囚280号へ

Conciergerie

 日本人とも深いかかわり*ルーブル ホテル

 昨日中国史の小説のことを当ブログでご紹介した際、『栄枯盛衰』という文字を書いた時、フランスの王女、マリー アントワネットのことが頭をよぎりました。それから、以前フランスを7泊8日の日程で旅したことを思い出しました。
 観光地で有名なモンサンミッシェルを訪れたり、ロワールでお城巡りをしたり、木骨の家々が立ち並ぶ古都ルーアンを訪れ、ジャンヌ ダルクに思いを馳せました。パリではエッフェル塔だけでなく、凱旋門の上にも登りました。屋上展望台からは12本の大通りが放射線状に伸びていて、パリ市内を一望できます。現在は治安上の問題で行けないかもしれません。この大通りの中で最も有名なのが、シャンゼリゼ大通り。
 今から160年ほど前、この大通りをつくっている時に、福澤諭吉を含む徳川幕府の侍団34名がヨーロッパの政治や文化を学ぶために訪れました。1862年のことです。夜でも道を明るく照らすガス灯に非常に驚いたとか。初めてサムライを見たフランス人はもっと驚いたことでしょう。
Hotel Du Louvre: Paris, France

彼らは『ルーブル ホテル』(ホテル ドゥ ルーブル)の4階に泊まりました。ルーブル美術館から徒歩2分の所にあります。最近リノベーションをしたとかで、当時の面影はどこまで残っているのかわかりませんが、それを知らずに泊まっては勿体ない気がします。もし興味のある方は、ここに泊まって当時の日本人が感じたことなどを思い巡らすのも、旅の満足感を高めてくれるかもしれません。
 パリ市内は主に地下鉄で移動しました。セーヌ川の夜景クルーズ、サクレクール寺院ルーブル美術館、数々の教会群、一通り主な観光地を回った中で、妙に印象に残っている場所がコンシェルジュリー』という、王妃マリー アントワネットが囚人として過ごした場所です。

王宮が監獄へ*コンシェルジュリー

  コンシェルジュリーは元々王宮として建てられたゴシック様式の建物で、フランス革命の時に、監獄として利用されていました。王宮を獄舎として使用せねばならないほど、『政治犯』がたくさんいたことがわかります。ここには、王妃マリー アントワネットを含む1200人以上もの人々が収用され、即日裁判を経て、ほとんどの人が『ギロチン』と呼ばれる断頭台に送られました。

Conciergerie Prison

マリー アントワネットの栄枯盛衰*フランス王妃から女囚280号へ

 マリー アントワネットはこの建物の奥にある個室に、2カ月半幽閉された後、首筋がはっきり見えるよう後ろ髪を切られ、粗末な荷車に乗せられて、刑場のあるコンコルド広場に送られました。37歳だった彼女は、いったい何を思い、ここで過ごしたのでしょう。コンシェルジュリーには、マリー アントワネットが過ごした独房を再現したものがあり、見学することができます。
 マリー アントワネットはここでは『女囚280号』と呼ばれました。王妃から囚人へ。コンシェルジュリーを訪れる前に、あまりにも華やかなヴェルサイユ宮殿を訪れたばかりだったので、一人の人間の『栄枯盛衰』がここまではっきり残っている場所が現存するのは、とても珍しいなと思いました。
 フランスの歴史というと、何だか自分達とは全く関係がないように思えます。でも徳川政府がわざわざ船に乗って遠路はるばる学びに来たように、決して無関係ではありません。彼らがフランスに来たのは、マリー アントワネットの死後、およそ70年後のことです。
 また、当時のフランス革命は、『人は生まれながらにして、自由であり、権利において平等である。すべての主権は、国民に属する』という世界中に大きな影響を与えた世界人権宣言の元になった革命でした。主権を国王から国民へ移したフランス革命の真っただ中にいたマリー アントワネットの37年間の人生には、日本人と無関係とは言い切れない気がします。 Conciergerie de Paris

14歳で政略結婚*マリー アントワネットの波乱に満ちた一生

 マリー アントワネットはオーストリアハプスブルク家の出身で、当時のイギリスに対抗するため、フランスのブルボン朝との政略結婚により、14歳でルイ16世と結婚しました。彼女は国民の税金を湯水のように使い、新しいドレスを着飾り、度々舞踏会を開いていたため、『赤字夫人』とか『オーストリア女』とあだ名がつきました。

 この姿に、大飢饉に襲われその日の食糧も事欠くフランス国民の怒りは頂点に達します。国王が何一つ対策をとらなかったことも火に油を注ぎました。貧しい生活を強いられた主婦を中心に約2万人が「小麦を!パンを!」と叫びながら、アントワネットの住む豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿に押しかけ、なだれ込みます。ヴェルサイユ宮殿は元々、ルイ14世が国王の絶対的な権力を示すために、贅の限りを尽くして造らせた建物なので、民衆の不満は宮殿とそこに住む人達に向けられるのは当然のことでした。
 民衆はアントワネットの寝室にまで入り、ベッドを切り裂きます。廊下は民衆と兵士との闘いで血の海になりました。アントワネットは間一髪のがれましたが、その後、亡命を企てた時に捕まってしまいます。「たとえ破滅が待っていたとしても、全く何もせずに滅びるわけにはいかない。自らを救う道を選びたい」と言って、夫を説き伏せた後の行動でした。
  その後、まずアントワネットの夫、ルイ16世が議会で361対360のわずか1票差で死刑宣告を受けます。その夜、ルイ16世はアントワネットに「明日の朝、また会おう」と言いますが、今生の別れとなりました。彼が処刑されたギロチンは、皮肉にも痛みを感じないようにという人道的見地から、ルイ16世自身が製造を許可したものです。
 その後、マリーアントワネットも3日間の訊問の末、死刑判決が下されます。彼女は、最後まで潔白を主張し続けました。判決が出た夜、アントワネットは親族に向け、「私はフランスの幸せを願っている。子供達には絶対に復讐など思わないよう伝えて欲しい。さようなら、さようなら」と遺言に記します。翌日の1793年10月16日、この世を旅立ちました。
  コンシェルジュリーには、マリー アントワネットが属した国王側だけでなく、追及した側の政治家らも次々と収用され、アントワネットと同じように処刑台に送られました。女性もいました。4万人とも言われる処刑者の数を思うと、フランスだけでなく、どの国も『自由』を手に入れるのは多くの犠牲があり、人間の不可解な歴史を感じます。
 アントワネットの死後、フランスの政治が落ち着くのは6年後、あの有名なナポレオン ボナパルトが出現してからです。Marie Antoinette

悲劇の人と呼ばないで

 マリー アントワネットはよく悲劇の人として扱われますが、若かりし頃のまま、贅沢三昧をして暮らしたほうが幸せだったのか、それとも監獄に入り、それまで考えもしなかった命のことや、人生のことを考えるにいたったことが幸せだったのか。コンシェルジュリーを訪れ、そんなことを考えました。
 アントワネットは「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるか本当に知るのです」という言葉を遺しています。
 歴史上の人物の一生をあとから批判するのはとても簡単ですが、彼女なりに懸命に生きた結果であり、その生きざまから学ぶことのほうが多いと思います。彼女は夫を愛し、子供を愛し続けた一人の女性に変わりはなく、自分なりに人生の答えを見つけた人です。人生に疑問が生まれ、その答えを自分で見つけた人は、ある意味とても幸せだと思います。悲劇という言葉は、最もアントワネットに似つかわしくない言葉だと思いました。
 尚、フランス革命など、フランスの歴史に興味がある方は、佐藤賢一さんの小説がお勧めです。