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希望発見ブログLooking for HOPE 

心を癒す旅 ~もっと楽しく、もっと気楽に。

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『アルバート アインシュタイン』*日本を愛した平和の使者

 昨日から学び、今日を生き、明日への希望を持ちましょう。大切なことは、問いかけることをやめないことです。(アルバート アインシュタイン)

The world is mine - Day 37/365

平和を貫いた物理学者

 アインシュタインは誰もが知る著名な物理学者で相対性理論を唱えたことで有名です。相対性理論はそれまでの物理の常識を覆す、世紀の大発見でした。
 彼のすごさは、物理学の分野にとどまりません。彼は生涯を国際親善に捧げ、絶対平和主義を訴え続けたことです。私がアインシュタインという偉大な魂を尊敬する理由はそこにあります。

アインシュタインの生い立ちと成功への軌跡

 アインシュタインは1879年3月14日、ドイツ南部のウルムという街で、ユダヤ人の家庭に生まれました。彼は幼児の頃、しゃべり始めるのが遅く、体を動かすことを嫌い、一人無口でいる少年でした。
 両親は二人とも温厚で、彼は二人の優しい性格を引き継ぎました。彼は母の影響でピアノを弾き、父と叔父の影響で数学の勉強に没頭するようになります。
 成績は常にトップでしたが、学校が嫌いで友人があまりいませんでした。15歳の頃、父親が経営する工場が立ち行かなくなり、一家はアインシュタインを置いて、イタリアへ移住します。
 彼は中学生だったので、卒業するまで一人ドイツにとどまるように言われたのです。学校で友達の少なかったアインシュタインは、あと二年もすれば徴兵制で軍隊に入らなければならなかったこともあり、両親には内緒で中退し、家族のいるイタリアに移住します。
 彼は州立高校を卒業した後、スイスのチューリッヒ工科大学へ入学します。そこでは親しい友人もでき、のちに妻となるミレーバ・マリッチとも出会います。卒業したのは西暦1900年の8月でした。
 卒業後、大学の臨時教師の職を経て、特許局に就職します。彼は特許局に七年間勤務しますが、とりわけ1905年は特殊相対性理論を始め、様々な論文を発表し、アインシュタインにとって奇跡の年と呼ばれるほどでした。
 1909年以降、彼はチューリッヒ、プラハ、ベルリンの大学の教授を歴任したり、『一般相対性理論』を発表したり、また胃潰瘍や肝臓の病気を患ったりと、目まぐるしい日々が続きます。
 1919年には妻のミレーバと離婚しました。(すぐに新しい妻エルザと結婚)。アインシュタインはノーベル物理学賞でもらった賞金の全てを、ミレーバに与えました。

Gion - Kyoto, Japan

アインシュタインが見た日本

 1920年代に入り、世界中から招かれて講演を行います。1922年11月17日、アインシュタインと妻エルザを乗せた北野丸が神戸に入港しました。
 彼は日本各地で講演をこなす傍ら、上野音楽学校の演奏会に招かれ日本の音楽に感動したり、自らバイオリンを披露したり、天ぷらやすき焼きなどの日本料理に舌鼓を打ったりと、日本滞在を満喫します。
 また、京都や奈良、日光東照宮も訪れ、日本の建築や自然にも魅了されました。帰国直前には赤いハチマキをして餅つきまで体験したのです。
 43日間の日本滞在を終え、各地で受けた熱狂的な歓迎と尊敬の眼差しを胸に、アインシュタインは船上の人となります。彼は船上から友人にあてた手紙の中で私は日本と日本人に魅了されています」「私の人生の中で最も美しい体験の一つとなりました」と書いています。
 日本人からすれば、世界的な著名人に関わらず、非常に謙虚な人柄と優しい語り口のアインシュタインに魅了されたのでしょう。

アインシュタインに迫る危機

 1933年になると、ドイツでナチスが台頭し、身の危険を感じた彼は、アメリカへ亡命します。アメリカでも連日のように、ニュースでナチスの迫害行為が伝えられていました。
  彼はヨーロッパ中で、自分と同じ何百万人ものユダヤ民族が、強制収容所に送られ、拷問や強制労働など悲惨な方法で迫害されていることに、胸を痛めます。
 絶対に戦争だけはしてはいけないという固い信条を持っていたアインシュタインでしたが、ナチスを倒すためなら、手段を選んでいる場合ではない、という苦渋の結論に至るのです。
 1939年8月、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙をしたためます。打倒ナチスを念頭に一日も早く原子爆弾の製造を急ぐよう、依頼したのです。
 1941年、アインシュタインの依頼を受諾したルーズベルト大統領は、科学者達に世界初の原子爆弾を作るよう命じます。
アメリカ政府は、相対性理論に基づいて核兵器の製造していることは、アインシュタインには一切伏せていました。結局、原子爆弾完成前に、ナチスは降伏します。

A-Bomb Dome

 1945年8月6日、自宅にいたアインシュタインの元に、ラジオから衝撃的なニュースが届きます。それは、アメリカ軍による広島への原爆投下のニュースでした。
  何年もの間、世界中を周り、国際親善につとめてきたアインシュタインにとって、愛する日本への原爆投下は、あまりにも悲しい出来事でした。
  彼は科学をあくまでも平和利用するために、活動を続けてきた人でした。アインシュタインは深い苦悩の中、もう二度と平和を政治家任せにしてはならない、という結論に至ります。

すべては平和のために

  科学者として平和のためにいったい何ができるのか。アインシュタインは終戦から一年も経っていない1946年5月23日、原子力科学者研究委員会の会長に就任し、世界政府による原爆の管理を提唱する声明をだします。
 1955年4月11日には、著名な科学者11名と共に、核兵器廃絶と科学技術の平和利用を世界中に唱えたラッセルアインシュタイン宣言に著名します。それが、彼のこの世での最後の役目でした。平和運動に魂魄を燃やし続けたアインシュタインは、その七日後、76歳でこの世を去りました。
「政治は今この時のためだが、数式は永遠の未来のためのものだ」と彼が言っています。いったい、この世という場所は何でできているのか、ということを彼を含めた物理学者達は、数式で表そうとしてきました。
 物理学者は、私達をとりまく自然の中に、ある完璧な法則があることを知っています。彼らにとって、自然法則を数式で表すことに挑戦することは、人生で最も興奮し、一生を捧げるに値する行為です。
 なぜなら、自然法則とは『神の法則』でもあるからです。その規則を完全に数式で表した人はまだいませんが、アインシュタインは相対性理論によって『自然法則』を人類史上、誰も見つけることのできなかった視点から垣間見た人でした。
 彼が自然を深く愛し、平和を心から望んでいたからこそ、たどりつけた着地点だったのだと私は思います。

“I want to know God’s thoughts. The rest are details.”- Albert Einstein

優しい天才*アルバート アインシュタイン

 彼の魂が非常に高いレベルだったという証拠たる言葉があります。
「神は人間の姿をしているのではない。神とは自然法則である」
 この言葉は霊的真理(スピリチュアリズム)の真髄であり、アインシュタインは物理学を通して、人間がこの世で得ることの出来得る、最高レベルの悟りを得ていたのです。
 宇宙に瞬く星々も四季に生きる草木も、完璧な自然法則の中で生きています。それは、私達人間にとっても同じことです。ただ、人間の自然法則が草木と違うところは、『どんな動機』で『何をしたか』という行為に対して、完璧な自然法則が働くということです。すべての行為が見過ごされることはありません。
 
人を思いやる行為や自分を誰かのために役立てようという行為には、それ相応の思いやりや出来事が必ず100パーセント自分に返ってきます。これは何も一生の間というわけではなく、死後の世界、または来世まで続くカルマ的な要素なのです。
   自然をこよなく愛し、愛と平和のために死の最後の瞬間まで生きた、『優しい天才・アルバート アインシュタイン』は、最高の自然法則の結果を魂に刻みながら、この世を旅立ちました。
 今も天国で微笑を称えつつ、世界の平和のために、多くの人々に手を差し伸べていることは想像に難くありません。

 最後まで、お読みいただきありがとうございました。
Your spiritual friend, ラニ

【この記事は2019年6月7日に、加筆・修正いたしました】